協同社会に生きる私たち人間は、利己的な行動を抑え、他人と協力しながら生きていかなければなりません。
本稿では、善く生きるとは何か?善い行いとは何か?その意味について、根本的な心構え(あり方)と具体的な行い(やり方)に分け、考えていきます。
その他、善悪の意味、性善説と性悪説、人間とは〇〇であるについても、それぞれ別稿で考えていますので、気になる方はご覧ください。
「【その行動は善?悪?】善悪とは?その意味」
「【我々人間の本性】性善説・性悪説とは?その意味」
「【我々人間の本性】人間は、動物的か?社会的か?それとも・・・」
善く生きるとは、今よりも善く、少しでも善く。を探究しつづけることである。
つまり、「より善く生きる」ことである。
心構え(あり方) ~善く生きるとは~
大前提
性悪である私たち人間は、どのように生きていけばよいのでしょうか。
理性・愛・慈悲を抹消し、悪のまま、欲望の赴くままの生き方をすればよいのでしょうか。
いや、やはり私たちは、自身の「生」を全うし、他人の「生」を尊重し、善に生きなければなりません。
現代社会では、全ての国で法律が定められており、法によって人間の性悪を制御・抑制し、社会の中でうまく共同していく仕組みができています。
しかし、法を犯さず法のみに従うことが、より善く生きることになるわけではありません。
これは、人間社会で生きるための最低限の行為です。
「人に迷惑をかけさえしなければ、何をしてもよい」というものがありますが、これは、”悪”に捉われた思考で、人間として退行した考えと言えます。
「悪いことをしなければよい」「善いことはしなくてもよい」
この考えは、善いことをしないことが前提になっています。
やはり、人間として生きる私たちは、人間としての本質(人間性)を高め、自身を修養しなくてはいけません。
善く生きるとは?
「善く生きる」ということは、どうあるべきなのか、そのあるべき姿について考えていきたいと思います。
近代哲学の祖といわれる、イマヌエル・カントは、善く生きるための倫理観を次のように捉えています。
カントにとって、到達される境地よりはるかに重要なのは、「いかにして」そこに到達するかという手続きである。(略)
教義・掟・啓示などによって獲得したとするなら、それは道徳的善さではない。(略)
純粋に自分の「内部から」道徳的善さに到達しなければ、まったく価値がない。これが、カントが内容ではなく形式というタームで言いたいこと道徳的な善さは、いかなる対象(善きもの)のうちにはなく、それを見いだす手続き(定言命法)のうちにあるということである。(略)
得をするからという動機に基づく場合、それはけっして道徳的に善くはない道徳的善さを実現しうることを信じること、こうして絶えず自分自身によって裏切られても、どこまでも自分が道徳的善さを実現しうることを信じること、それが理性信仰にほかならない
われわれはいかにしてみずからを幸福にするかという教えではなく、いかにしてわれわれは幸福に値するようになるべきかという教えである
※ターム=学術用語
出典:「悪への自由(カント倫理学の深層文法)」(哲学者 中島義道)
上記については、少し難しい表現になっていますが、
要するにカントが考える「善く生きる」とは、次の3つのポイントにまとめられます。
- 定言命法(理由なき行為)
- 絶対的な善き行為は存在し得ない
- ひたすら善を探究する
1 定言命法
定言命法とは、無条件の行動を意味しています。
私たちが使い慣れている「仮言命法」の反対の意味を持ちます。
例えば、
仮言命法では、「相手が喜ぶから、他人に親切にする」に対して
定言命法では、「他人に親切にするべきだから、他人に親切にする」となります。
理由なき純粋な行動であり、損得勘定で行動するものではありません。
もし理由があれば、その行動は絶対的に独立したものではなく、不純で何かに支配されたものとなります。
同じ親切な行為をしたとしても、善き行為になるかどうかは、すなわち、仮言命法か定言命法どうかで決定されます。
2 絶対的な善き行為は存在し得ない
先ほどのように、同じ行為であっても善にも悪にもなり得るということは、絶対的な善の行為は存在しないことになります。
カントが言うように、
行為の動機は、自分以外の外部からではなく、純粋に自分の内部から発生するものでなければなりません。
為すべきであるから為すことができる
きみはできる。なぜならすべきだから
引用:イマヌエル・カント
3 ひたすら善を探究する
そして一番重要となる「善の探究」です。
先ほどの「親切な行為」を例に、次の言葉を紹介します。
「小さな親切、大きなお世話」
自分が親切な行為だと思っていても、たとえ、それが定言命法による理由なき親切であっても、その行為は、相手にとって迷惑な行為になる可能性があります。
だからこそ、常日頃から何が善き行動になりうるか考え続けなければなりません。
今の行為が善き行為であるのか内省するとともに、何が善き行為に値するのか、求め続けなければなりません。
今よりも善く、少しでも善く
これまで述べたとおり、善く生きるには、「今より」という前向きに突き進む意識が非常に重要だということです。
「善く生きる」のではなく「より善く生きる」
絶対的な善き行為がないように、答えのないこの究極の問いに対して、今よりもさらに善く生き続けなければなりません。
これは、カントいわく「最高善」の取り組みに当たるとしています。
このカントの「善く生きる」の思想については、哲学者で実用的思想家に代表されるジョン・デューイや、政治学者で人権論を専門とするマイケル・イグナティエフたちも、同じような考えを持っています。
悪人とは、彼がかつてどんなに善良であったとしても、今現に悪くなり始めている、善良さがなくなっていきつつある人のことであり、
出典:ジョン・デューイ
善良な人とは、その人がかつてどんなに道徳的に価値なきものであっても、より良くなる方向へ動いている人のことである
個々人が自由に想像力を発揮することによって、自分たちが置かれた状況を分析し、何が善いことなのかを積極的に探究するよう要求するのである。
出典:「許される悪はあるのか? – テロの時代の政治と倫理」(政治学者 マイケル・イグナティエフ)
われわれは、たえず「善くあろう」と欲しながら、行為のたびごとにそれに挫折し、自分のうちに、はびこる悪に両肩を落とし、自分自身に有罪宣告を下し、そして「なぜだ?」と問いつづけるほかはない。なぜなら、このことを全身で受け止めて悩み苦しむこと、それが、とりもなおさず「善く生きること」なのであるから。
出典:「悪について」(哲学者 中島義道)
「より善く生きる」のは難しいことのように感じますが、「思考」することができる私たち人間は、進化する動物です。
人間は、社会や環境に順応しながら、柔軟に進化しながら生きています。
人間の身体は未熟な状態で産まれ、歳月をかけ成長します。それと同様、精神や人格も進化させることができるのです。
ただし、身体と違って精神は、自分の意志によって進化もするし退化(退行)もします。
だからこそ、より善き道を目指し、人生を歩まなければなりません。
具体的な行い(やり方) ~善い行いとは~
善く生きるための心構えを踏まえて、次に、具体的な生き方について考えてみます。
一つ留意していただきたいのが、上述のとおり、「絶対的な善き行為」を見つけ出すことは不可能であり、善いかどうかは、神や仏にしかわかりません。
そのため、常に今よりも善く生きるために考え続けなければなりません。
このことを認識した上で、本項では「より善くなる方向に値する行動」について考えます。
仏教から学ぶ「具体的な行為」
ではまず、仏教の教えです。
仏教の言葉に、「施しは無上の善根なり」というものがあり、布施 はこの上ない善の根本とされています。
釈尊に関する話が書かれたお経『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』には「無財の七施」の行いについて説かれています。
布施はお金が伴うものだと考えてしまいがちですが、お金がなくても、相手にお布施をすることができます。
『無財の七施』
- 心施(しんせ)
心から相手を思いやること- 眼施(げんせ)
優しい眼差しで人に接すること- 和顔施(わげんぜ)
にこやかな笑顔で接すること- 言辞施(ごんじせ)
柔らかくやさしい言葉遣いをすること- 身施(しんせ)
自分の身体でできることを奉仕すること- 床座施(しょうざせ)
座る席や場所を譲ること- 房舎施(ぼうじゃせ)
自分の家でおもてなしをし、休息の場を提供すること。
この無財の七施は、誰でもどんな時でも行うことができるものばかりです。
遣るか遣らないかは本人の意志次第です。
荀子から学ぶ「具体的な行為」
それでは次に、性悪説を説いた荀子の考えを紹介します。
荀子は、「礼を尊びて法を重んじる」という思想を説き、最も重要なのは「礼」であるとしています。
「礼」とは情を飾るためのものであり、相手を深く思いやる気持ち「仁心」を具現化したものです。
例えば、相手に感謝している気持ちがあっても、それを言葉にしなければ相手に伝わりません。
そのため、「ありがとうございます」としっかり相手にお礼を伝えることが必要です。
「仁心」「礼」は、先ほどの「無財の七施」と次のような共通点があります。
「仁心」=心施
「礼」=眼施、和顔施、言辞施、身施、床座施、房舎施
この共通点を見れば、釈尊も荀子も同じことを説いていることがわかります。
「礼」の根本は「仁心」であり、お布施でいう心施に当たり、親切な心・優しい心・温かい心から相手を思いやるということです。
そして、上述の心構えの項でも示したとおり、これらの具体的な行為は、理由なきもの、定言命法でなければなりません。
見返りの気持ちを無くし、「そうすべきだからそうした」この意志だけを持つことが必要です。
間違っても、自己の欲望や偏った道理によって誤った行動を起こしてはいけません。
一度、間違った行動を起こしてしまえば、アナタの将来の選択を狭め、より善き道から離れてしまいます。
ドイツの心理学者エーリッヒ・フロムは次のように言っています。
私たちの選択能力は、生活をおくる中で絶えず変化する。
出典:「悪について」エーリッヒ・フロム
誤った選択を長く続けるほど、私たちの心は硬化する。
正しい選択をすることが多ければ心は柔軟になる。
最後に、
より善く生きることについて色々と考えてきましたが、文章で記述することは単純で簡単です。
しかし、これを実践し続けることは容易ではありません。
ただ、物が豊富で贅沢な現代社会に生きている私たち日本人であれば、相手に思いやりを持ち、より善く生きるために考え、行動し続けることは可能です。
絶対的に正しいと思う偏った道理・意固地な考えを止め、そしてテレビやSNSなどに現れる煽動者に決して流されず、人間の本質(あるべき姿)だけを高めるように生きる。
取りも直さず、これがより善く生きることです。
刻石流水(かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め)
訳:他人にしたことはすぐに忘れ、他人にしてもらったことは決して忘れるな
仏教の教え
わがもののひとのもののというもののものは世間のもののものなり
引用:瀬戸大橋を構想した香川県の政治家 大久保 諶之丞(おおくぼ じんのじょう)
善悪の意味、性善説と性悪説、人間とは〇〇であるについても、それぞれ別稿で考えていますので、気になる方はご覧ください。
「【その行動は善?悪?】善悪とは?その意味」
「【我々人間の本性】性善説・性悪説とは?その意味」
「【我々人間の本性】人間は、動物的か?社会的か?それとも・・・」
参考文献:
「悪について(渡会圭子訳)」(社会心理学者 エーリッヒ・フロム)
「許される悪はあるのか?(添谷育志、金田耕一訳)」(政治学者 マイケル・イグナティエフ)
「悪への自由(カント倫理学の深層文法)」(哲学者 中島義道)
「悪について」(哲学者 中島義道)
「カントの幸福論」(金沢大学 松永知子)
「荀子の政治思想に関する一考察」(鹿児島国際大学 侯雨萌)